ニール・ポストマン「子どもはもういない」

中世ヨーロッパに、子どもはいなかった。

厳密に言えば、少年・少女期が無かった。
人は幼児期(6-7歳)を過ぎると、
いきなり大人と同じように扱われた。

唐突に思えるが、大学でいちおう哲学を専攻し、
ルソーやデューイやフーコーを
読まされていた私にとっては、既知の学説だ。

「子ども」は大人と同じように働き、
大人との間に秘密は無かった。
つまり中世ヨーロッパには、エロい話など無く、
「子ども」が性的に搾取されるとか
暴力を受けるという概念そのものが
存在しなかった。

それは、教育が無かったからだ、
と大学では教わったが、
なぜ教育が再興したかといえば、
グーテンベルクが印刷機を発明したからだ。

文字が大量に流通することによって、
読み書きすることが求められるようになり、
結果的に、子どもたちに教育が必要になった。

読み書きによる情報は、
教育を受けた大人が独占するようになり、
子ども(読み書きを習う世代)と大人が分離した。
宗教や儀式や計算や科学や性的な知識は
大人だけの秘密になり、
子どもは教育により「一人前」になるまで、
大人の庇護を受けるべく存在となった。

1980年代に執筆された本著は、テレビの普及、
当時流行った言葉で言えば
「高度情報化社会」によって、
再び、子どもはいなくなる、と予言したものだ。
テレビは多分にグラフィックなメディアで、
読み書きの価値を低下させ、
大人にも子どもにも
同様のコンテンツを撒き散らす。
つまりテレビは、大人が独占してきた知識や秘密を
子どもに開放した。

当時のアメリカの話だが、
テレビは禁忌を亡き者にした。
子どもと大人の服装の区別が無くなり、
10代のセックス経験率が高くなり、
ドラッグも、犯罪も、音楽の好みも、
大人並みになっているのが、
何よりの証拠だ、と。

この時代の著者らの警鐘は、
子どもとメディアとの接し方に
様々な道徳論や法的制約を用意させてきた。
テレビ番組や映画のレーティングなどもそうだし
「昔のテレビは面白かった、
いまは自主規制云々で」という議論も、
子どもに「相応しくない」情報を、
子どもから隔離させる操作の一貫とも言えよう。

子どもを消滅させないため、35年前の著者は
コンピュータへ期待を寄せている。
プログラム言語が難解なので、
習熟するには教育が必要、という論理から。
既にGUIの概念が生まれつつあったのだろうが、
確かにコンピュータ(スマホ)がテレビよりも
情報を大量かつ容易に入手可能とする
グラフィカルなメディアとして普及するとは、
著者ニール・ポストマンをしても、
予想できなかったのだろう。

テレビが普及した始めたとき、
子どもにとって危険なメディアと言われた。
そして今では、テレビが、
ネットやスマホは子どもにとって危険だ、
とがなりたてる。

確かにこの数十年、特に先進国を中心に
人権意識が大きく変化し、
子どもは一層守られるべき存在になった。
子どもは守られるべき存在だ、
という意見には異論はない。
けれども、子どもが大人と同じレベルの情報を
取得できる環境にある、
という前提に立ったうえで、
守ることの意味を考える必要があると思う。
グーテンベルクの時代とは、
情報伝達の量と速度は圧倒的に違うのだ。

子どもに有害だと、大人が考える情報が
ほんとに子どもにとって有害なのか。
「有害」な情報から遮断すれば済むのか。
恣意的ではない情報の選択や遮断が可能なのか。
AIに情報の仕訳させたとしても、
どこかに恣意性が潜んでいるかも知れないし。

子どもの定義や
グーテンベルク時代から大きな改革の無い
(つまり、読み書き重視の)教育そのものを
根本的に考え直す必要があるのだと思う。