夢野久作「ドグラ・マグラ」と無常と輪廻、脳髄論の先進性。

ぼくらの世代の文学青年が一度は通る夢野久作だが、
いまはメンヘラ女子の通過儀礼になっているらしい。
 
久しぶりに再読して、
そのプロットと構成の凄さを再認識するとともに、
若い頃は気にも留めなかった3つの点について考えてみた。
 
一つ目、精神疾患者の非人道的処遇。
病気として認められているいまですら、
周囲の偏見は残っている。
統合失調症やうつ病なんかは、
気合が足りない、弛んでいるから発症するんだ、
などと思っている人すら多い。
 
ほんの少し昔まで、精神疾患者は隔離されてきた。
病気と認められず、恥ずかしいものとして隠されてきた。
ヨーロッパで病気として研究対象となったのは19世紀後半、
人道的見地で救護所ができ始めたのも、その頃だった。
日本では、”廃棄”されるか、
経済・社会的立場の高い家庭では、
自宅の奥深くいわゆる座敷牢に閉じ込められていた。
明治政府は1900年に精神病者監護法を制定し、
精神疾患者の私宅監置を合法化した。
 
本著は、開放病棟などまったく一般的では無かった、
そうした時代に執筆されている。
国庫による精神病院の整備が方針化されたのは、
精神病院法が制定された1919年以降である。
大学による精神疾患者の”厚遇”、
私財による開放病棟の整備などの特別な意味は、
こうした背景の中で、吟味されるべきだろう。
 
二つ目は「脳髄論」について。
人間の感覚や記憶や意志や判断は、
30兆ある細胞の個々に籠もっている。
脳髄は、それら細胞の意識や感覚を反射し交感する
仲介機能、すなわち単なる”電話交換機”と同じであって、
脳髄の反射交感機能が損なわれた時に精神異常が起こる、
と言う小説内論文。
 
ぼくが高校で生物を学ぶ頃には、
記憶とは大脳新皮質のシナプスで電気信号の交換によりなされる、
というのが定説になっていたと思う。
認知症やアルツハイマーなどは、短期記憶を司る海馬の障害に起因する、
と最近は言われている。
脳はCPUであり、シナプスこそハードディスクなのだ、
ともはや誰もが信じているのではないか。
 
ところが最近になって、
シナプス記憶保存説に異議を唱える研究者が出てきた。
UCLAのデイビット・グランツマン教授のチームは、
アメフラシの実験から、
ウィスコンシン大学のジュリオ・トノーニ教授の統合情報理論によれば、
人間の意識や記憶は、
脳細胞や神経細胞の一部分が担っているのではなく、
感覚機能と神経細胞、脳細胞によって複雑に結ばれた
「ネットワーク」の中にある、という。
いわばデータセンター一極集中ではなく、クラウド型だ。
こうなると、脳髄はルーターであり、電話交換機だ。
 
100年前に夢のが描いた「脳髄論」は、
どこか仏教における意識の関係や無常の真理に
影響を得た雰囲気を感じるが、
最新の研究がようやくこれに追いついた、とすら思える。
 
最後に、小説内論文「胎児の夢」について。
DNAは何を伝えているのか。
単細胞生物からヒトへと進化していく過程の
記憶を伝えているのではないか。
唐突にみる現実離れした夢、デジャヴ、原因不明の焦燥など、
自らの後天的経験では得られていない記憶や意識が、芽生えることがある。
DNAが先祖の記憶すら伝えていると感じたりしないか。
 
先祖が単細胞生物だったころの、ぬるぬると生温かい感触。
猿人だった頃、敵に追われて崖に落とされたときの恐怖。
こうした前世の記憶が先祖から引き継がれる。
突き詰めれば、これも仏教の輪廻思想に近い。
 
ヒトゲノム解析は塩基配列を明らかにしたに過ぎない。
DNAが先祖の記憶をも刻んでいる可能性だって、
無くはないと思う。
 
本著は自分を取り戻そうとする記憶喪失者の苦悩を描いた
推理小説と言えるが、
現代の最新科学が解き明かせないでいる神秘を
解き明かしてくれそうな仏教思想が全体を覆っているように思う。