夢野久作「ドグラ・マグラ」と無常と輪廻、脳髄論の先進性。

ぼくらの世代の文学青年が一度は通る夢野久作だが、
いまはメンヘラ女子の通過儀礼になっているらしい。
 
久しぶりに再読して、
そのプロットと構成の凄さを再認識するとともに、
若い頃は気にも留めなかった3つの点について考えてみた。
 
一つ目、精神疾患者の非人道的処遇。
病気として認められているいまですら、
周囲の偏見は残っている。
統合失調症やうつ病なんかは、
気合が足りない、弛んでいるから発症するんだ、
などと思っている人すら多い。
 
ほんの少し昔まで、精神疾患者は隔離されてきた。
病気と認められず、恥ずかしいものとして隠されてきた。
ヨーロッパで病気として研究対象となったのは19世紀後半、
人道的見地で救護所ができ始めたのも、その頃だった。
日本では、”廃棄”されるか、
経済・社会的立場の高い家庭では、
自宅の奥深くいわゆる座敷牢に閉じ込められていた。
明治政府は1900年に精神病者監護法を制定し、
精神疾患者の私宅監置を合法化した。
 
本著は、開放病棟などまったく一般的では無かった、
そうした時代に執筆されている。
国庫による精神病院の整備が方針化されたのは、
精神病院法が制定された1919年以降である。
大学による精神疾患者の”厚遇”、
私財による開放病棟の整備などの特別な意味は、
こうした背景の中で、吟味されるべきだろう。
 
二つ目は「脳髄論」について。
人間の感覚や記憶や意志や判断は、
30兆ある細胞の個々に籠もっている。
脳髄は、それら細胞の意識や感覚を反射し交感する
仲介機能、すなわち単なる”電話交換機”と同じであって、
脳髄の反射交感機能が損なわれた時に精神異常が起こる、
と言う小説内論文。
 
ぼくが高校で生物を学ぶ頃には、
記憶とは大脳新皮質のシナプスで電気信号の交換によりなされる、
というのが定説になっていたと思う。
認知症やアルツハイマーなどは、短期記憶を司る海馬の障害に起因する、
と最近は言われている。
脳はCPUであり、シナプスこそハードディスクなのだ、
ともはや誰もが信じているのではないか。
 
ところが最近になって、
シナプス記憶保存説に異議を唱える研究者が出てきた。
UCLAのデイビット・グランツマン教授のチームは、
アメフラシの実験から、
ウィスコンシン大学のジュリオ・トノーニ教授の統合情報理論によれば、
人間の意識や記憶は、
脳細胞や神経細胞の一部分が担っているのではなく、
感覚機能と神経細胞、脳細胞によって複雑に結ばれた
「ネットワーク」の中にある、という。
いわばデータセンター一極集中ではなく、クラウド型だ。
こうなると、脳髄はルーターであり、電話交換機だ。
 
100年前に夢のが描いた「脳髄論」は、
どこか仏教における意識の関係や無常の真理に
影響を得た雰囲気を感じるが、
最新の研究がようやくこれに追いついた、とすら思える。
 
最後に、小説内論文「胎児の夢」について。
DNAは何を伝えているのか。
単細胞生物からヒトへと進化していく過程の
記憶を伝えているのではないか。
唐突にみる現実離れした夢、デジャヴ、原因不明の焦燥など、
自らの後天的経験では得られていない記憶や意識が、芽生えることがある。
DNAが先祖の記憶すら伝えていると感じたりしないか。
 
先祖が単細胞生物だったころの、ぬるぬると生温かい感触。
猿人だった頃、敵に追われて崖に落とされたときの恐怖。
こうした前世の記憶が先祖から引き継がれる。
突き詰めれば、これも仏教の輪廻思想に近い。
 
ヒトゲノム解析は塩基配列を明らかにしたに過ぎない。
DNAが先祖の記憶をも刻んでいる可能性だって、
無くはないと思う。
 
本著は自分を取り戻そうとする記憶喪失者の苦悩を描いた
推理小説と言えるが、
現代の最新科学が解き明かせないでいる神秘を
解き明かしてくれそうな仏教思想が全体を覆っているように思う。

安保法制議論で足りなかったこと。(佐伯啓思著「従属国家論」を読んで)

安保法制に関連する論点を僕なりに整理すれば、
大きく以下の4点に集約される。

(1)日本の安全保障・防衛の基本方針
(2)集団的自衛権の解釈
(3)集団的自衛権の違憲性
(4)国会での議論の進め方

特に衆議院特別委員会で関連法案が通過して以降、
日本の世論の趨勢は(3)と(4)に収斂していった感想を受ける。

(1)(2)は日本という国家そのものの方向付けに関わる問題だと思うのに、
国会での議論があまり伝わってこなかった。
これは、メディアでの取り上げ方が量的に少なかったと同時に、
国民の関心も低かったからなのだろう。

日本はアメリカ合衆国と一蓮托生という前提が
国民やメディアにあるからだろうと思う。

日本は自由主義・民主主義の法治国家であり、
そうした価値観を持つ国家群のリーダー核がアメリカなのだから、
日本はアメリカと行動をともにすれば良い。

もはや現在の日本において、アプリオリに存在する原理すら言える
この前提に、議論は必要ないのだろうか。
本著では、「あの戦争」の「終戦」いらい、
日本はアメリカの催眠術にかけられた状態であることを、示唆している。

第一段階は、ポツダム宣言。
これはアメリカ、イギリス、中華民国による共同宣言というオブラートに包まれているが、
事実上アメリカ一国の価値観を押し付ける文書である。
この宣言の受け入れは、
少なくとも日本が仕込んだ満州事変以降の戦争状態が、
侵略として認定され、「東京裁判」の判決へと繋がっていく。

第二段階は、日本国憲法。
これがマッカーサーの司令を受けた
GHQ民生局によって起草されたのは周知の事実だが、
1947年5月、つまり日本が未だ「連合国」の占領下にあった時に、
施行されていることも、大きな問題。
占領下だから、日本という国家に主権は無い(制限されている)し、
国民に主権が無い
(厳密に言えば、憲法施行と同時に国民は主権者となったが、
国家としての主権は行使できない占領下状態が
1952年4月に講和条約を締結するまで継続している)。
その後、独立を取り戻してから、
改憲なり国会による再承認の手続きがなされたわけではないので、
この憲法は、国体上の矛盾があり、いわば違憲だ。

そして第三段階は、日米安全保障条約。
これは、上述の流れで、
武装解除され軍事力を制限された日本側からアメリカへのお願いというか、
その状態を逆手に取って経済復興を優先させようとした
吉田茂の意趣返しとしての意味合いも強い。

けれども、こうした流れによって、
<自由・民主主義は最も素晴らしく尊い価値観であり、 こうした理想的世界を築くため、 アメリカが率先して指導する。 それまで日本が行ってきたのは侵略であり、 侵略を企てた者は罰せられなければならないし、 侵略行為に結びつくような武力は持ってはならない、 日本の安全に何らかの支障が生じることがあれば、 アメリカが日本を守ってくれる。>
という考え方は、多くの日本人に広がったと言えよう。

このことはアメリカと結びつき日本の共産化を阻止し、
経済を立て直そうと考えた「右派・保守派」にも、
国家権力による抑圧や戦争に巻き込まれたく無い、
と願う「左派・革新派」にも、好都合だった。
だから70年近く、大きな議論を呼び起こすことにはならなかったのだ。

でも、アメリカには日本を守る義務など無かった。
<アメリカが掲げる価値観を共有する前提において、 アメリカの必要性によっては、 アメリカは日本を守る場合もある>
程度のもの。
アメリカの国益に適う場合にのみ、
日本はアメリカに助けられる可能性がある。

集団的自衛権とはそういうことだと思う。
自国の国益に結びつくからこそ、
同盟国の自衛に加勢する意味がある。

だからほんらい日本国民が最初に考えなければならないのは、個別防衛。
自ら戦争を起こす気など無くとも、
自国民の生命や財産は自国で守るのが筋。
独立国の原点だし、他国を信じきってはいけない。
民主主義を標榜するなら、主権者たる国民一人一人に
自国防衛の義務がある。
これは必ずしも国民が兵役に就かねばらなない、
という話にはならない。

もちろん、外交や武力以外の国力によって
他国からの武力行使を阻止する努力が必要だ。

もっと税金を払って傭兵を雇う選択すらあり得るし、
それがアメリカの軍隊だというのなら、
価値観の共有と切り離して議論すべきだと思う。

つぎに、アメリカで良いのか、という話。
アメリカの掲げる自由と民主主義がホンモノなのか、
自由と民主主義が、近未来の世界に幅広く浸透する価値なのか、
いろいろ考えて見る必要があると思う。

「戦後レジーム」の見直し・脱却と口にする人たちは多いけど、
未だに真剣な見直しがなされていないし、
戦後レジーム自体の定義すら曖昧だ。

著者は嫌米主義者では無さそうだし、
かなり中庸・客観的な立場で、戦後レジームを述べていると思う。
日本がアメリカの「従属国家」のままで良い、悪いの結論も出してはいない。

かつての絶対王政がそうだったように、
日本の防衛はアメリカに委託し、その代わり主権もアメリカに預ける、
みたいな選択肢だったあるのだろう。
僕は反対だけど、
いずれはっきりさせて行かなければならない
重大なテーマであることに違いない。

習政権の盤石化 – 高口康太著「なぜ、習近平は激怒したのか」

中国の共産党一党支配体制が近いうちに崩壊することは無い。
中国経済の低成長化の影響は、
中国国内よりもむしろ中国国外のほうが大きくなる。

20年近く仕事で中国に関わってきた僕はこう感じていたけど、
この本は、それをより確信に近づけた。

お上(政府)に過大な期待をする、
過剰に責任を追求する。
これは日本や中国に顕著な事象に思える。

日本はいちおう自由主義・民主主義の国家なのだけど、
西欧米のように革命や独立でそれを奪い取ったわけじゃないから、
主権者としての権利が優先してしまいがちになる。
民主主義の原点は主権者たる国民が自らの生命や財産を守ること。
自国防衛まで他国任せの我が国には、
民主主義のプレイヤーとしての自覚が足りない。

中国は独裁国家と言われるけど、
専制国家とは違う。
民の不信や不満が爆発すれば、独裁体制は容易に崩壊する。
大陸では太古から「徳」を呼ばれていたものが、
独裁体制を合理化してきた。

不信や不満をある程度強権で抑えつけることは不可能ではないが、
一定の量を超えたら抑えきれなくなるし、
世間(外国)の眼もあるから、かつてのように大虐殺などできないだろう。
中国のトップに立つ人たちはそこまで馬鹿じゃないから、
加減を考えながら、押し引きするだろう。

残念ながら、外国メディアに取り上げられたり、
ネットで話題になるような”人権派”や”民主派”の活動は、
中国国内では然程話題になってはいないし、
彼女/彼らへの抑圧行為は、
外国の民主主義政権が、
腰を上げて問いただすレベル以内で収まっているのだろう。

片やこの十年で、多くの中国人民は豊かになり、
生活に選択とゆとりが生まれた。
自分や家族や親戚の暮らしが、以前よりましになっていくほど、
政治は非可視化されていく。

自分や周囲の安寧な生活が脅かされることになると
ようやく政治/政府を思い出す。
近所に廃棄物処理場が建つとか化学工場ができるとか、
NIMBY小市民の思考は、中国も日本も大差無い。

理財商品の元本を保証しろ、とか
株が暴落したから何とかしろ、とか
爆発現場に近くて地価が暴落したから買い取れ、とか
そういう時に政府を頼ろうとするし、
政府も(波及効果も含めて)ボリューム層が騒ぎ出せば、
なんとか対応の姿勢を示さざるを得ない。
これは既存体制を前提とした事象だ。

しかも、こうしたボリューム層には、
著者が指摘したように、
共産党独裁体制下の既得権益者が多い。
中国でビジネスがそこそこうまく行っている人たちの多くは、
直接的・間接的に政権から利益を享受されてきたと考えて良い。
それは政策そのものからかも知れないし、
役人への心付けからかも知れないし。

もちろん、不幸にもこうした流れに乗れなかった人たち、
乗ることを拒否した人たちもいる。
もはや少数派と言える彼女/彼らが、
政権に対する不満を表現する場として、
インターネットが期待された。

習近平登城以前には、日本のメディアでも
中国のネット書き込みが即、中国の世論を代表するような
取り上げ方をされた。
インターネットを利用した、政府への不満を拡散する手法を
習近平が人民から奪っただけではなく、
かつてネットユーザーが生み出してきた手法を
政権側は活用するようになった、と著者は述べている。

中国においてインターネットの影響力はいまも甚大だ。
口コミによって、思いもよらぬ商品が日本で品切れになるほどだ。
それは、日常生活やエンタテインメント、
普段の暮らしをちょっと豊かにしてくれる情報に関して。
元々多くのネットユーザーは、自分と直接関わりのないテーマに関しては、
野次馬でしかない。
日本もそうだろう。

かつて中国のネットパワーに、特に中国国外の人たちが期待した結果が、
金盾やVPNなど壁超え規制の強化をもたらしたとすら言えよう。
むしろこうした政策は、政治的モチベーションのみから生まれたのではなく、
内国産のネット企業が、
アメリカなどの巨大競合企業と血まみれの競争をせずに済む、
という経済的モチベーションもあったはず。
アリババもテンセントも、こうしたモラトリアムを得て、
悠々と中国国外でも稼ぐ環境を整えた。

経済に関して言えば、
輸出依存からの脱皮への心構えは、
少なくとも日本政府以上に進んでいると思う。
人件費が高くなったとはいえ、
西に行けば、未だベトナムより安く、
ノウハウを持った同一言語を話す指導者が沿岸部より供給される。
中間層の爆買いを内需として取り戻すことができれば、
パワーはあるだろう、日本の街角を歩いていても感じ取れると思う。

日本の10倍の人口の中から、
揉みくちゃにされてのし上がってきた中国の指導者たちだから、
そんな簡単に、崩壊させるようなヘマは犯さないと思う。

最近「中国崩壊論」を日本であまり耳にしなくなったのは、何故だろう。
単に飽きただけなのかな。

捉え方によって中国は僕たちにとって脅威だと思うし、
いつかこの体制が崩壊して大混乱に陥るシナリオだって無くはない。
経済成長から取り残された人たち、
政権に抑圧されている人たちが数多く存在するのも事実。
こうしたことが、一層可視化されなくなることを念頭に置きつつ、
関心と注意を怠らないことが大切だと思う。

食と豊かさを考える – 福島香織 著「中国食品工場のブラックホール」

食べ物を誤ってテーブルや床に落としたとしても、数秒以内に拾い上げたら、食べても問題ない、と言う「3秒ルール」とか「5秒ルール」が日本にもある。
食べ物に対する清潔感とは不思議なもので、例えばトレッキングに出かけて、沢を流れる水は美味しいとごくごく飲めるだろうけど、そこに誰かが落としたおにぎりの残党たるご飯つぶなどが浮いているものなら、なんか汚された感じがして、沢の水を飲むことを躊躇ってしまう。食べ残しか知らないが、ご飯つぶは食べられるものなのだから、たいして問題は無いはずだ。むしろ清流にみえる沢の上流で、誰かが放尿しているかもしれないが、そのことは分からない。

アメリカが本社のOSIグループの中国現地法人である上海福喜食品が”潜入取材”で暴露された問題のうち、一つは床に落としたお肉をそのまま拾い上げて加工プロセスに乗せたこと。ぼくらの「3秒ルール」に照らし合わせると、特に問題行為とは思えない。むしろ、床に落としたお弁当のソーセージはそのまま食べちゃくこともあるけど、上海福喜食品の「3秒ルール」は、その後加熱処理するわけだから、むしろ安全性が高い。
もう一つの問題、賞味期限について言えば、私の奥さんは相当無茶をする。賞味期限切れの食材を家族に食べさせるために、良く言えば工夫している。ちょっと臭いがするような食材でも、料理にまぜて使ったりする。冷蔵庫をのぞき込み、消費期限切れの食材を発見すると、私や息子は不安を告げるが、よほどのことが無い限り、使いきっているようだ。このことでお腹を壊したことはまだない。
貧しかった頃、人々は工夫したもので、腐った豆や魚を食べる勇気がなかったら、味噌や醤油や納豆やナンプラーの発見は無かったはずだ。ホームレスの人がコンビニのゴミ箱から食べ残こしのサンドイッチの欠片を拾って食べたとしても、それは果たして不潔なのだろうか?
大量生産のために画一化された規格に外れたものが、食品として不適格と考えるのは、豊かになった私たちのおごりと言えるのではないだろうか?

けれども、化学物質の混入はまったく別の話だ。
ごまかしでも悪質だし、落としたものや期限切れのものを混ぜることとは本質的に異なると思う。
とは言え、これも中国固有の問題とは言い難い。
大戦後の日本の子どもたちは、アメリカから強要され脱脂粉乳を給食で飲まされ続けてきたが、栄養価を高めるためメラミンを添加されたものだったらしい。乳児ではなかったら生き抜けたのかも知れないけれど、貧困・食糧不足のフェーズにおいて、故意に添加物で価値を上げるという手法は古今東西行われてきたのだと思う。
メラミンもチクロもサッカリンも、昔はその危険性を深く追求されてこなかった。
けれども現時点で、明らかに危険・有害と認定されている化学物質を混入することは、許される行為とは言い難い。

著者も触れているが、地溝油や人工卵やフカヒレ、アワビには、エネルギーや食料不足に立ち向かうためのヒントがあるようにも思える。
使用済み食用油や残飯から生産される地溝油は、そのままでは食するに危険だ。けれども有害成分を除去する技術が確立すれば、エコロジーの循環が作れるかもしれない。少なくとも、灯油や重油に代わるエネルギーとして利用することは可能だろう。
人工卵などの食材も安全性が確保されれば、安価にタンパク質源を供給できるとともに、哀れな鶏を増やさなくとも済むかもしれない。安全で美味しいフカヒレが生産できれば、生態系破壊は少しでも抑えられる。
そもそも日本人が好んで食するイクラや数の子だって天然物などごく僅かなはず。世界に誇るカニカマ(裕福になった日本ですら、カニカマと積極的に表示せずカニサラダなどが売られたりしている)を創った技術力と安全管理の手腕を以って、日本企業が力を貸してあげたらどうだろう。

本著にもある通り、中国でも都会で良い生活をしている皆さんは一般的に食への安全意識が高い。また、自ら生産する農牧民もそうだろう。いんちき食材のターゲットは、安全な食品を手に入れることが出来ない中流未満の貧しい人々だ。こうした人達は、安全より空腹を満たすことが大切なのだ。
安全が保証された食品は決して安価ではない。アメリカでは豊かでない人々ほど肥満が多い。これは安全とは言えない工業的大量生産のお肉やファストフードを頻繁に食べているから、と言われている。
食の安全の本質は、誰もが安全な食品を食べれるような世界を目指すことだろう。
中国のように、安全な食品を食べれる人たちとそうでない人たちが混在している国だからこそ、問題が顕在化する。それは決して悪いことではない。アフリカの一部の国々など、安全な食品を手に入れられない人たちがマジョリティの地域だって、地球上にはたくさん残されており、危険な食品問題は顕在化されにくい。乳の出ない母親にとっては、メラミン入の粉ミルクであっても、やせ細る赤ちゃんに飲ませてあげたいものではないか。

ところで、上海福喜食品の”事件”は、外資系工場・外資系ブランドの製品であっても、中国の豊かな人達は、その安全性や品質を信じていない、という事実をみごとに裏付ける出来事といえよう。
日本ブランドのオムツやトイレタリー、粉ミルクなど、赤ちゃん用品や日常肌に直接つかう商品は、中国で人気が高い。日本企業の多くは、売れ行きの良い商品から中国生産に切り替える。特に紙おむつや生理用品など物流コストが高くつく商品は、消費地の近くで製造するに越したことはない。中国向けにスペックを落とす商品もあるが、最近は日本向け商品と同じスペックで中国で製造する商品も多い。
それなのに、中国製造商品は人気がない。同じスペックの商品でも、わざわざ日本製造の商品を日本から買い寄せる。
これは、中国人が中国人を信用していない証左だ。厳密に言えば、日本ブランドが買えるような中流以上の中国人が、日本ブランドなど外資系工場で働く中流未満の中国人を信頼していない、ということ。
いくら原材料や製造プロセスが同じと言っても、中国人が製造工程に関わっている以上、いんちきやズルがあるかも知れない、異物が混入するかもしれない、プロセスで手抜きをするかもしれない、だから中国製造は信頼出来ない、というロジック。
日本企業の品質管理は万全です、と胸を張れない事情もある。モチベーションの低い日本人工場長がいないとは言えないし、そもそも万全な品質管理などありえないのだ。

本著にも触れられていたが、日本企業と欧米企業では中国企業の現地化の方向性は概して異なる。
日本企業の場合、日本の本社から派遣されたトップが、現地社員と一丸となって、理念から啓蒙していく手法が一般的。欧米企業(特にアングロサクソン系)は、海外経験のある華人のエリートをいきなりトップに据える。どちらにも一利一害があって、どちらがうまくいくとも限らないと思っている。結局は人、特にトップの人格や能力に依ると考えている。
少なくとも、日本式の心が通じ合えればマネジメントもうまくいく、とかしっかり教育・養成すれば幹部として定着するとか、という幻想は捨てたほうが良いと思う。日本的品質管理は、性善説と長期雇用の家族主義に支えられている部分が多い。中国に限らず、多くの国々では通用しない、と思う。
インセンティブとペナルティ、飴と鞭で管理しなければ、立ち行かなくなるはず。
工場で働く人たちは、自分たちが作っている食品を、値段が高いため自ら口にすることができない。工員はやっかみでイタズラもしたくなるだろうし、そう考えれば、管理側も日本式教育だ育成だ、とも悠長には言ってはいられないだろう。

”この食品、商品をどんな人たちが作っているのか、その人たちの給料はどのくらいで、どんな暮らしをしているのか、どんな思いで作っているのか”
本著の締めくくりにあるように、私たちは食するとき、消費するときに、一瞬でいいから想像してみたいと思う。同時に、この食品、商品を享受できるのは、どういう人たちで、どれくらいありがたいことなのかを。

いまこそ、新しい経済のシステムと価値観を創り始めるとき。 水野和夫著「資本主義の終焉と歴史の危機」

資本主義は「中心」と「周辺」から構成され、「周辺」を取り込むことで「中心」が利益を得て拡大されていくシステム。

資本主義の起源は13世紀、キリスト教会が「金利」を認めたことに遡るという。
そう、資本主義の主役はいつの時代もキリスト教世界。
当時はヨーロッパ大陸の封建領主が資本家で、「周辺」は東欧やイギリスだった。
16世紀になって「周辺」は”新大陸”やインド、アジア、アフリカへと広がった。
20世紀にアメリカが「中心」となって、最近まではBRICsが「周辺」だった。

いま資本主義は「周辺」空間を失ってしまい、同一国家内に「中心」と「周辺」を作り出してしまった。
富める国、貧困国と言う構図ではなく、経済力の大きな米西欧日本でも国民の間で経済格差が広がている。
新興国と呼ばれている国々は、所謂経済のグローバリゼーションによってごく一部の富裕層を生み出しているだけで、
彼(彼女)たちが「中心」となり資本主義を実践している。
貧富の差拡大は、何も中国に限ったことではなく、東南アジア、インド、アフリカなどでも、顕在化している。

資本主義は「周辺」という「空間」を埋め尽くすことで「中心」の資本が膨張する仕組みだったが、21世紀に入って「中心」の移動が滞る事態に陥っている。
象徴的なのは、利率の低下。
そう日本では1995年からもう20年近くも実質ゼロ金利だ。
アメリカも低金利政策を採用し、元に戻そうとすると市場が敏感に反応するので、塩漬け状態に陥っている。

シンプルに言えば、金利は投資リターンと同義だ。
金利が2%を切ると、投資リターンはゼロと同じだから、こうした状況が続けば、資本主義は成り立たなくなる。
いまそう見えないのは、サイバー空間が千分の一秒の”時差”を使った投資リターンを擬似的に生み出していることと、
新興国に過剰に行き渡った資金を何とか吸収するだけの「空間」が残っていたからだ。

けれども、過剰はいずれ調整局面に入り、前世紀末日本が体験し、09年に欧米が体験したバブル経済の崩壊が、新興国でも起きることを意味する。
特に、図体のでかい中国のバブル崩壊は、グローバルレベルでの資本主義の崩壊の引き金になりかねない。

資本主義は、中心と周辺、ごく一部の富裕層と大多数の貧困層を生み出して、資本の行き先を失った時点で機能しなくなるだろう。
確かに、成長のプロセスにおいて、資本主義は多数派の中間層を作り出してきた。民主主義の担い手だ。
中間層が多数派であるうちは、多数決が原則の民主主義はかなり機能してきた。
けれども貧困層がマジョリティになってしまうと、民主主義が機能しなくなる。
アメリカは民主主義の精神を重視している国家だと認めるが、現状は金融資本が国家を支配している。

かつて、資本主義は労働者を搾取しているとして批判され、共産主義が開発された。
けれども、資本が国境をほぼ自由に超えられるグローバリゼーションの時代になって、搾取されているのは「中心」の国家と「周辺」の空間だ。
資本の行き場が無くなりつつあるいま、経済が成長し続けるという妄想は捨てなければならない。
国家は経済的な主権を資本家から取り戻さなければならない。
もはや過剰が無駄であることを、すべての地球市民は認めなければならない。

ほんとに困っている人たち—実はこうした貧困層の生活は地球の寿命を縮めている—のために、過剰資本が流れる仕組みが必要だろう。
投資リターンを求めるという経済活動では無い価値観のあらたな仕組みによって、
化石エネルギーと食糧の枯渇を長引かせ、森林資源を守り、CO2の排出量を削減し、
少しでも地球とその住民の寿命を伸ばすために、
僕たちは、資本主義に代わる新しいシステムと価値観を創り出していく作業に取り掛からなければならないと思う。

中村俊裕著「世界を巻き込む」–貧困層が必要とする技術を。

新興国の国民すべてが、中間層にまで持ち上がるなんて妄想に過ぎない。
豊かな富裕層と経済成長に取り残されたボトムの人たちが残る。
1日2ドルの生活費が、3ドルに持ち上がるかも知れないが、物価は2倍になるかも知れない。
それでも、電気も水道もガスも使えずに暮らす人達はいなくならないだろう。

本書の著者は、ボトムと言われる貧困層とのラストマイルをつなぐビジネスモデルを創った。

電気が通じない地域では石油ランプで灯りをとる。ラストマイルの石油は都市部より高く、生活費を圧迫すると言う。
有害な煤が出るし、火災の原因にもなる。
水は、毎日往復何時間もかけて汲みに行く。女性や子どもたちの仕事となり、勉強する時間を制約する。
調理は薪で火をおこす。女性は水汲みと火起こしで一日が終わってしまう。
薪は森林を減らし、CO2を増やす。

こうした暮らしはローテクの導入により改善される。
ソーラーライト、ペットボトルを利用した転がせる水運搬ドラム、調理コンロなど。

必要な人たちに必要な技術を届ける。
国連を含む政府系機関の経済援助では、なかなか実現できないこと。
途上国の首都には立派な道路や空港ができるかも知れないし、資金の半分が賄賂に消えてしまうかも知れない。
取り残されれるのは、ラストマイル。

著者が代表を務めるコペルニクという組織では、フィードバックを重視する。
届けた技術がほんとうに必要なものだったのか、役に立ったのかモニタリングしながら、改善を重ねているという。
しかも、こうしたローテク道具を無料で配るのではなく、ボトム層が購入できる価格設定で購入してもらう。
一方的な、押し付けの支援ではなく、ボトム層の自立とインボルブを目指している。

新興国の一人あたりのGDPが、先進国並みになることは、資源の有限性などから、理論的に不可能なことだ。
先に富める者が富み、取り残される人たちのほうがマジョリティになるは確定された未来だ。
彼・彼女たちの暮らしを少しでも良くする努力は、先に豊かさを得た人々の義務になっていくだろう。
そして、それがビジネスとして成り立つのなら、それも良いことだと思う。

水は低いところに流れていく — 福島香織著「中国複合汚染の正体」

中国の大気汚染はPM2.5という指標とともに、日本でも関心が高まった。
中国国内メディアも頻繁に取り上げ、中間層・富裕層を抱える沿岸都市部を中心に関心が高まり、共産党政権もその足元を揺るがしかねない問題として、その対策に乗り出している。

しかし、中国では国内で報道されず、海外メディアが取材しようとしても地方政府に妨害されるような土壌や河川の汚染が多く発生している。こうした汚染地域にはがんの発生率が高く、「がん村」と呼ばれているところもある。その多くは農村部にあるため、中国都市部に住む中間層・富裕層の大多数にとっては他人ごとであり、共産党政権の中枢にとっても封じ込めておけば大問題にはならないという意識がある。

都市部に住む共産党幹部は、PM2.5濃度の高い汚染された空気を逃れることはできないが、「がん村」に代表される水質や土壌が汚染された地域の水を飲むことは無いし、農水畜産物を食べることも無い。
このことは、共産党幹部に限らず、中国の多くの中間層・富裕層にもあてはまる。

政治指導部や金持ちにとって、大気汚染は自分の問題でもあるが、水質や土壌の汚染は他人ごと。
だから、PM2.5はメディアに露出し、いちおうの対策も進んでいるが、もう一方の問題はほとんど置き去りなのだ。

さらにマクロな見方をすれば、中国に汚染を押し付けたのは先進国だ。特に日本の責任は重い。
高度成長期の日本は公害で悩まされた。被害が大きくなり、国は公害対策に乗り出した。排気も排水も汚染物を除去するように義務付けられ、市民社会の監視も厳しくなった。
日本企業が製造拠点を中国に移した主な理由はコストだ。人件費も大きいが、公害や環境対策費も重要だ。中間材料なども、中国などから調達するようになった。
そして、日本は工業を海外に移し、サービス産業のポートフォリオを得た。

いっぽう、最近までの中国の経済成長は、日本をはじめとする先進国の工業を受け入れることで加速した。
多くの中国企業は、先進国からのコスト要求を満たすことと自らの利益を拡大させるために、環境対策を軽視した。
極論するなら、その最大の被害者は中国の地方農村部などの汚染地域で生活する人たちであり、最大の利益享受者は先進国で暮らす私たち自身なのだ。

本著では、とある「がん村」の原因をつくったとされる味の素についても触れている。
河南省の蓮花味之素(中国国内向けにうま味調味料を製造)は排水を浄化するコストを惜しんで未処理のまま垂れ流した。川には奇形の魚が泳ぎ、村民のがんの発生率は高まったという。味の素は、合弁会社の経営陣が勝手にしたこととし、責任を逃れるように合弁事業から手を引いた。
確かに、排水浄化システムは味の素のノウハウを活かして導入された。コストを抑えるため中国側の経営陣が稼働させなかったのだという。
しかし、合弁会社の株式は味の素グループで過半を占めており、共同経営責任とともに株主責任は重いはずだ。

中国のさまざまな汚染の責任と対策を、中国一国に押し付けても解決しない。
私たちの快適な環境の歪を押し付けられてきたのだ。
中国の政治体制が変らない限り、例えば企業責任が公平に問われる環境、恣意的な司法と法執行の改善が進まなければ、なかなか解決しないだろうとは思う。
けれども、中国の汚染は少なからず私たちが消費するモノにつながっている。中国に汚染を押し付けている企業を見ぬくこと、そうしてコストを抑えたような商品を避けることなどはできる。

水は低いところに流れる。汚染物質も貧しいところに押し付けられるのだ。


ソウル・マイニング- 音楽的自伝 by ダニエル・ラノワ

U2の”Joshua Tree”、Bob Dylanの”Time out of my Mind”、The Neville Brothersの”Yellow Moon”は、ぼくの大好きなアルバムの一部だ。iPhoneに残された再生回数はどの曲も30回を超えている。
これらのアルバムをプロデュースしたのがDaniel Lanoisであり、本書の著者だ。

多くの自伝にあるような苦労話や自慢話とは異なる、音の採掘人としての彼の人柄が滲み出た書物であり、彼が求めつづける音楽=魂を探し当てるためのロード・ムービー。

録音に入る前に、Lanoisはアーティストと語り合うという。
どんな音を求めているのか、どんなアルバムを目指そうとしているのか。
カウンセリングだ。

それから、音を用意する。
ミュージシャンが演奏するための最高の環境を準備する。

Lanoisが拘ったのは、バラバラにならないこと。
いまのレコーディングといえば、楽器ごとにブースに入り、ガイドのクリック音に合わせてトラックを録音するような、孤独なスタジオミュージシャンをイメージしてしまう。
もはや誰もがDTMによる重ね録りで、それなりのサウンドをシミュレーションできてしまう。
けれども、Lanoisはライブなグルーヴ感を追い求めた。
アーティスト同士がアイコンタクトできる。インプロヴィゼーションできる。
廃業した映画館にステージをこしらえて、テープを回す。一体感が奇跡を誘発する。
だから、単一音源。
個別トラックを後からミックスするのではなく、セッティングで音の奥行きや広がりをつくる。

Lanoisは、情報共有にも拘った。
例えば、エンジニアやミキサーしか見ることができなかったタイムコードを、誰もが見ることができるようスタジオに掲示した。
アーティストは、満足できなかったフレーズのタイムコードを記憶に残せるから、効率が上がる。
金魚鉢のようなミキシングルームから、トークバックで怒鳴りあうことも無い。

そして、機材を大切にすること。
「機材が壊れていたり、ほこりを被っていたりしたら、自分の人生を見直す必要があるとわかるのだ。」
アーティストと同じくらい大切な機材。少なくともこいつは大切にしていれば、言うことを聞いてくれる。

Lanoisの拘りは、そのままビジネス・マネージメントに活かされる。
メンバーとよく話し合い、目標を共有する。
事前に最高の準備をする。
一体感を保つ。
情報を共有する。
後方支援部隊を大切にする。

もちろん、Lanoisがいつもアーティストとうまくやってきたわけではない。Bob Dylanとは彼との協働に満足していなかったことを告白している。
アマチュアであろうが一度でもバンドをやったことがある人間は、互いの方向性が合わなくなった時の嫌な雰囲気を体験しているはずだ。
レコーディング中、スランプに陥ったり、期待されたプレイが出なかったり、雰囲気が悪くなっても、商売になる音源を完成させるのがプロデューサーの仕事だろう。
Lanoisは駐車場やホテルの部屋で、離れつつあるアーティストをつかまえて語り合い、引き止め、モチベーションを取り戻させたのだろう。
苦労話は語られていないが、行間からは滲み出ている。

本書は音楽好きはもちろん、マネージメントに悩んでいるビジネス・パーソンに対しても、インスピレーションをかきたてるだろう。

在中日本人108人のそれでも私たちが中国に住む理由

日本人の中にも、中国は怖い国で中国人は野蛮だと思っている人たちはいる。
中国人を乗せないタクシーもあれば、未だに中国人お断りの温泉旅館もある。
ただ多くの日本人は、中国人に面と向かって、そうは言わない。
一部の中国人が、ストレートにモノを言い、感情を顕にするのと違う。
ただそれは、日本人に対してだけではない。自国民に対しても遠慮はない。

政治に関わる国家間の問題は、国民ひとりひとりに関わりがない、とは言えない。
特に日本は民主主義を謳っているのだから、領土問題にしても外交問題にしても、突き詰めればそれは国民ひとりひとりの意志となる。
尖閣諸島を国有化した政治判断にしても、ほんらい日本国民ひとりひとりに説明責任がある。
中国と少し違うところだ。
中国政府が、尖閣諸島を占領しようが、チベットの人たちを虐げようが、中国人民は他人事としても責は問われないだろう。

ただ日本という国家はかつて中国の人たちを虐げた。だが中国は近世以来日本を侵略したことはない。
これは事実だ。
そして、日本が中国で起こした戦争について、日本国民の責を問わない。
これも中国政権が一貫して撮り続けている態度だ。

この書籍の編集者、執筆者、写真、レイアウト、すべて中国在住の日本人だ。
2012年の反日機運の高まりを、一次情報として自ら体験した人たちだ。
そして、その想いはそれぞれだ。

ただ共通していることがある。
メディアの伝え方に対する異議だ。
身近で体験し感じたことと日本のメディアが日本国民に伝えている内容との乖離。

ぼくは、日本の商業メディアが、日中関係を悪化させている張本人の一つだと思う。
中国のメディアも反日を煽る。でもそれは政治にコントロールされているメディアがほとんどだ。
しかも、中国人民はそうしたメディアが伝える情報をあまり真剣には受け取らない。
多くの日本人が、メディアに妄信的であるのに反して。。。

女神記 – 桐野 夏生

陰の巫女・ナミマとその姉で陽の巫女・カミクゥの物語。
ナミマと彼女を裏切った男・マヒトの物語。
そして、イザナミとイザナギの物語。

ナミマが育った南の島は、琉球の創世神アマミキヨが降りて国造りを始めたとされる沖縄県久高島をモデルとしているようです。
久高島にはいまも女性を守護神とする精神文化を伝え残しており、つい最近まで神女となるための通過儀礼イザイホーが行われていたそうです。
ナミマは掟を破り、マヒトは”家”のためにナミマを裏切り、妹と夫の過去を悟ったカミクゥは海に身を投げます。
イザナミは、イザナギに裏切られ、黄泉の国で毎日千人の元夫の”後添い”を殺し続けます。

イザナミはイザナギとの交合により、日本を形づくる島々や森羅万象の神々を産みました。
けれども、日本の国造りに関わるアマテラスを始めとする神々(人神)は、イザナミと離縁した後に、穢れを禊いだイザナギが”単性生殖”で産み出しました。
男と女、生と死、陽と陰、昼と夜、明と暗、浄と穢、天と地。
前者は尊く後者は卑しいとされ、古事記の世界でも、女神は陰であり、創造は男神の専任事項とされたのです。
大阪市長の例の発言も、きっとこうした精神が根源にあっのでしょう。
しかしこの物語で、イザナミは終始イザナギより優位に立ち、ナミマはマヒトを赦すことになります。
桐野は、きっと女性の本質的な強さと尊い役回りを描きたかったのでしょう。